じっぱひとからげ

十把一絡げになんでもかんでもつづる。

2歳の息子が新幹線で嘔吐してしまった話

 2歳の誕生日を迎えたばかりの息子と妻と3人で妻の群馬の実家に帰省する途中、京都・東京の新幹線の中で嘔吐してしまった。まずは、居合わせた乗客のみなさまご迷惑をおかけしました。申し訳ありませんでした。
 我々夫婦にとっては、忘れられない日になったのでそのときのことを記録しておこうと思う。


 2歳の誕生日を迎えた息子と、新幹線で京都駅から東京駅に向かう。東京駅で乗り換えて高崎駅まで向かう予定だった。朝が早かったこともあり、朝食はコンビニのおにぎり。車内でひとつたいらげて、指定席2つの間に座らせていたときのことだった。

「酸いにおいがする。大丈夫かな」
妻が言ったその瞬間、ことが起こってしまった。

 特に朝から具合が悪かったわけでもなく熱があったわけでもない。車内でもごきげんで、あまりに唐突だったため、我々は袋を用意するなど、何の対処もできなかった。こんな事態に見舞われたのは初めてのことだった。

 結果から言えば、あまり慣れていない揺れる車内での食事や、乗り物酔いによるものなのだろうと考えている。特に病気だったとか、熱があったということはなかった。しかし、息子が2歳を迎えて、旅行のなどの移動の場数もこなしてきたこともあり、我々も油断していたと深く反省した。

 ことが起こったとき、すぐに妻は、汚れてしまった息子を抱きかかえてデッキに向かい、私はシートやその周りを片付け始めた。3列シート側で我々の隣に座っていた女性に「大丈夫ですか?」と声をかけると、嫌な顔一つせずに「大丈夫ですよ」と話してくれた。

 私がシートの周りを片付け始めてすぐのことだった。JRの職員がビニールに包まれた青色の四角を持って私の方に近づいてくるのが見えた。この状況に立たされている私には、その四角が私を絶望の淵から救い出す四角だということに気がつくのにそう多くの時間は必要としなかった。

 座席のカバーだった。新幹線の座席のお尻の部分だけの交換パーツを持っていた。

 とにかくその場を取り繕うのに必死だった私は、その四角がやってきたことに妙な安心感を覚えた。そうなのか、よかった。この座席は交換できるんだ。慌てていたこともあり、職員を探して連絡するなどという余裕がなかったにも関わらず、どこからともなく職員が座席の交換カバーを持って現れたのだった。作業時間短縮のためか、5名ほどの職員が我々の乗っていた車両に集まってきていた。

 一次対処としての私の片付けが終わり、職員による交換作業が始まった。あまりに気が動転していたので、どれくらいの時間だったか正確には覚えていないが、慣れた手つきでシートのガワを外し、持ってきた交換用のシートを取り付けていた。新幹線のシートというのは、こんなにも簡単に取り外せてしまうのか、と驚いた。おそらく数分間のできごとだっただろう。

 シートの交換が終わり、デッキにいるの妻の様子を見に行くと、私なんかよりもずっと冷静に息子を着替えさせている妻と、ことが済んで無邪気な表情でキャッキャしている息子がいた。息子の笑顔に安堵するとともに、私の頭の中はといえば、迷惑をかけてしまった周囲の乗客のことを考えていた。

 私だって同じ車両の子どもが吐いたら多少なりとも嫌な気持ちになる。それは同じ子どもを持つ親であったとしてもだ。なんとかして、迷惑をかけた方々に少しでも嫌な気持ちを緩和させられないかと考えたけれど、パニック状態の私には、とても良いアイディアなど思いつかなかった。せめて、3列シートで我々夫婦の隣に座っていた女性だけでも、別の座席に案内したいと考えて、職員に女性にグリーン券を買いたいと申し出た。もうすぐ小田原に着く頃だっただろう。

「隣に座っていた女性に迷惑をかけてしまったので、座席が空いていればグリーン券を買ってグリーン車に案内したいのですが」

そう申し出る私に対して、JRの職員はこう言った。

「そのような対応は致しかねます。私たちのほうで席をご案内しますので、ご心配要りません」

すぐに、女性は職員の誘導で、別の車両へと案内されていった。もともとこのような事態への対応は織り込み済みだったのか、私から申し出たことによりJRが会社として対応する意思決定をしたのかはわからない。でも、間違いなく私が相談した職員は、誰に相談することもなく、即答で、とても自然で、毅然とした対応だった。

 我々に唯一できたことと言えば、職員の誘導で別車両に案内されていく女性に、「大変申し訳ありませんでした」と、ただただ頭を下げることだけだった。



 交換された新品のシートと、ことが起こるまで女性が座っていたシートの空いた3列シートに、きまり悪そうにデッキから戻ってきた我々は、もう二度目は許されないとばかりに袋をしっかりと用意し、万全の体制を整えていた。

 しばらくすると、3つほど前の2列シート側に2人と子どもを連れて座っていたご家族のお母さん立ち上がり、なにやら袋を持って我々の座席に近づいてきた。


「これ、うちのでよかったら着てください。そんな格好じゃ外に出られないでしょう?」


 移動中の負荷を少しでも軽減しようという作戦だった我々は、荷物を事前に群馬の実家に発送していたので、まともな着替えもなく、息子はこの12月に半袖過ごすことを余儀なくされていた。そんな様子を見るに見かねて、お母さんが自分たちの子どもに着せるはずの服を、見ず知らずの我々に差し出してきたのだった。

 おそらくこれを読んでいる子を持つ親なら、いざというときのための子どもの着替えを持っていないなんてあり得ない、そう思うかもしれない。その通りだ。我々も、もう少し以前であれば、オムツ大爆発に備えて着替えを常備していたものだが、ここ最近はその心配もほとんどなくなってきたこともあり、このような事態が起こるなどと想像だにしていなかった。


「ありがとうございます。」


そういって袋を受け取り、早速、息子を着替えさせようと袋を見てまた驚いた。着替え上下、靴下、さらには使い捨てカイロまで入っているではないか。


こんなにも優しい世界があったのか。
妻は目に涙を浮かべていた。


 もしかすると、特に何も連絡していないのに職員がすぐにかけつけたのも、このご家族が連絡してくれたおかげなのかもしれない。この得も言われぬ感謝の気持ちを「ありがとう」以外の何で表現できようかと、考えに考えた。まずはお借りした服をお返しする連絡先を聞こう。そして、お返しするときにお礼を。いや、こんな見ず知らずの我々に良くしてくれようというご夫婦のこと、きっと教えてなどくれないのだろう、むろん、お金など受け取ってはくれまい。でも、この感謝の気持ちを伝えないわけにはいかない。


「あの、本当にありがとうございました。助かりました。お借りした服をお返しするのに、連絡先を教えていただけないでしょうか」

「いえいえ、いいんですよ。そんなつもりではありませんので」

「いえ、でも……。」

「困ったときはお互い様ですから。」


 妻はすっかり泣いていた。


 我々夫婦を助けてくれたこのご家族に対しては何もできなかったけれど、今後、我々が同じように困っている家族を見つけたら、間違いなく手を差し伸べるだろう。


「困ったときはお互い様ですから。」と。